北尾光司

#八百長野郎 #空拳道


元大相撲第60代横綱で元プロレスラー・元武道家・元総合格闘家
北尾光司氏が2月10日に逝去していた模様。死因は慢性腎不全、享年55

僕らにとって北尾とは、長い間ずっと「A級戦犯」であった。
許せなかったのはやっぱりSWS時代、ジョン・テンタとの試合中にいき
なりマイクを掴み、「この八百長野郎!」と叫んだこと。あの頃の僕は
“八百長”という言葉に敏感で、それをプロレスラー自らが叫んだ事実が
腹立たしいやら悔しいやら。その段階でもう二度と見ることの無い選手
だと思っていたのだが・・・。

それでも北尾を実力者として認めざるを得なくなったのは、Uインター
での山崎・高田との二連戦。あの山崎を子ども扱いし、満を持して行わ
れた高田との一戦では後に伝説となったハイキックでのKO負け。未だに
この試合は僕の観たプロレスの試合の中でもベストと言えるモノである。


逝去のニュースを見て、もう一度北尾のデビュー戦ビガロ戦を確認し
てみた。今この試合だけを改めて見れば、決して悪い内容ではない。
この日は他の試合が凄すぎただけだった、というのはフォローしすぎな
んだろうか?

出来ればもう一度だけ、プロレスファンの前に姿を見せて欲しかった。
ビガロとの決着戦があるのなら、その時はあちらで必ず観戦したい。
ご冥福をお祈りします。

ロックン・ロール

どうかな?と思った時期もあるし、期間としてはその方が長いのかも。
でも、やっぱりこの人が居なければ日本ロックン・ロールは根付か
なかったのかもしれない。

一瞬たりともブレなかったその人生は、間違い無く認める
内田裕也、アンタやたらカッコ良かったぜ!

THE “INTELLIGENT SENSATIONAL” DESTROYER

“白覆面の魔王”こと、ザ・デストロイヤー(本名:ディック・ベイヤー)が、
3月7日(日本時間8日)、米国ニューヨーク州・バッファローの自宅で永眠
死因は今のところ明らかにされていないが、家族に看取られた安らかな死で
あったという。元WWA世界ヘビー級AWA世界ヘビー級王者。享年88

僕がプロレスに興味を持った要因の一つが、ザ・デストロイヤー。
他のスポーツでは絶対にあり得ない“覆面レスラー”という存在があまりに
奇異な上に、当時の子どもたちの誰もが真似した“足四の字固め”という必
殺技の説得力と相まって、プロレス少年の心をガッチリ掴んだ。僕が知っ
た頃のデストロイヤーは全日本プロレス日本陣営で活躍する正統派だっ
たことも大きな理由。


↑↑はあまりにも有名な力道山との死闘。
この試合のテレビ視聴率64%という放送史上4位の記録。真っ白なマスク
を鮮血で染める姿は当時のデストロイヤーの定番であり、最も恐怖を感じさ
せるプロレスラーであったらしい。


力道山亡き後の日本プロレス時代は、エース外国人として猪木・馬場と対戦。
↓↓、YouTubeで発見した猪木との試合は実力者同士の好勝負で、今観ても
唸ってしまう程のレベル。

全日本プロレス参戦時は、PWF認定US王者として活躍。
↓↓のマスカラスとの試合を始め、大ヒット企画「覆面十番勝負」シリーズ
ではずっとデストロイヤーを応援していた。このマスカラスとの試合も記憶
しているのだが、会場の声援がマスカラスに集中していたのに憤っていた覚
えがある。

そして、僕が最初に手に入れたマスクもデストロイヤーのもの。
直筆サインの入った、今思えばかなり貴重なモデルだったのだが、小学生の
頃に何度も被ってプロレスごっこをしたため、破れてしまったのが非常に悔
やまれる。今もマスクを収集しているのは、あの頃のトキメキが未だに鮮明
なのが原因だと思う。

謹んでご冥福をお祈りします。
長生きしてくれたことを感謝すると同時に、これまでの功績を大きくリスペ
クトします。また必ず、どこかで。

※偉大なるプロレスラーであった故人に敬意を表し、敬称略とさせていただ
きました。

全身、コレ鋭利ナ刃物

・・・一人の「生き方」として。
ダイナマイト・キッド「今日を生きるために明日を顧みなかった」男。
将来のことなど微塵も考えず、その時・その場で最高であろう、と、フル
スロットで駆け抜けた。

そもそも、最初にTVで見た時のキッドは、ロングヘア王子様スタイル
贔屓目に見ても体重70kg台前半の細身、そして端正な顔立ち。それでも
目の鋭さだけは際だっており、一瞬で「ヤバいヤツ」だと解った。

いちばんビックリしたのは二度目のTV登場時。
カルガリー藤波辰爾の対角に立ったキッドは明らかに一回り大きくなっ
ており、当時日の出の勢いだった藤波と好勝負を展開。人間というのは、
短期間でここまで変われるのか、と恐ろしくなった。

三度目
身体は更に大きくなり、筋肉の塊となる。さらにアタマをスキンヘッド
剃り上げ、得意技はダイビング・ヘッドバッドスキップ・ヤングにこの
技を繰り出した時、仕掛けた側のキッドが流血。血を拭おうともせずに恐
ろしい目つきを魅せたキッドの下で、ヤングはピクリとも動かなかった。

そこから、ずっとキッドを観てきた。
タイガーマスクとの一連の抗争や、コブラ・スミスとの三つ巴決戦、全日
本に移籍してからはファンクスハンセン&ブロディに真っ向から立ち向
かう。WWE時代はステロイド(著書で「馬用を使用」と明言)を使い、
ヘビー級と遜色ない身体を作り上げ、超重量級の相手と毎日のように闘った。

・・・案の定、晩年のキッドは見るに忍びない姿に変わり果てた。
それでも自らの行為を決して否定しない。良いか悪いかはともかく、明日
を捨てた男の生き様はただただ「カッコイイ」としか言い様がなかった。

最後に、キッドのラストインタビューとされる記事を引用する。

ーーー身体を壊してしまったことについて、後悔していますか?

「別に後悔はしていない。すべては自己責任だよ。」

・・・ダイナマイト・キッド、2018年12月5日、60歳の誕生日に永眠。
鋭利な刃物にして爆弾小僧の人生に、最高の感謝と、最大のリスペクトを。
また必ず、どこかで。

DON LEO JONATHAN

「人間台風」のニックネームで1940年代から全米で活躍したプロレスラー
ドン・レオ・ジョナサン氏がカナダの病院にて死去。享年87。死因について
は明らかにされていないが、年齢的にも「天寿を全うした」と言って良い。

日本では1958年力道山時代の日本プロレスに初来日。
考えてみればこの頃がジョナサンの全盛期であった筈で、力道山がテーズか
ら奪ったインターナショナル選手権初防衛戦の相手を務めた記録が残って
いる。

僕が最初にジョナサンを見たのは↑↑1975年全日本プロレス・オープン
選手権で、とにかく他のどの選手よりも「強さ」を発揮。上記は当時の全日
本外人エース、アブドーラ・ザ・ブッチャーとのシングルだが、日の出の勢
いのブッチャーに殆ど何もさせず、子ども扱いしているのだから凄い。
この時、ジョナサンは既に晩年だった、ということを考慮すると、全盛期が
どれだけ凄かったか想像が付く。

スタン・ハンセンブルーザー・ブロディのような、反則をせずにフィジカ
ルの強さをウリとした名選手。プロレスにそれほど明るくないウチの父親も、
「ジョナサンは強かった」と言っていたくらい。

ここまで生きていてくれた事実に対し、心からリスペクトを。
本当に強く練習熱心なプロレスラーならば、しっかり寿命を全う出来ること
を証明してくれた気がする。

これまでお疲れ様でした。また必ずどこかで。